読んだり書いたり

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ライター小花茉里のよしなしごと

夕顔ともののけ /『源氏物語』

昨日の源氏講座で『源氏』の和歌の事を少し思い出した。
主に平安前期に、和歌にかかわる短い物語を集めた「歌物語」という形式がある。代表的なものは『伊勢物語』『大和物語』。ただ、私は後者を読んだことがない。
『伊勢』を例にすると、和歌は、和歌単体で鑑賞する場合に対し、それがどんな流れの中でどのように詠まれたかを含んでとらえると存在意義が変わってしまう。状況に対して即興的に詠まれるものが和歌ならば、それはそうなるのだろう。

『源氏』にも頻繁に歌は出て来るが、私はそのほとんどを覚えていない。しかし一首思い出したものがある。

夕顔の「心あてに」。

心あてに それかとぞ見る 白露の
  光添へたる 夕顔の花

たいへん率直な歌で、内容の示すところは身も蓋もない。
「もしやあなたはあの有名な輝くばかりの貴公子様ではありませんか?」
というような事を呼びかけている。
古今集から本歌取りしているらしく、技巧は格調高いが示す意は極めて即物的だ。私には粉飾上手の一例にしかおもえない歌だが。

当時、男性から女性に歌を送ることはあっても、最初のきっかけが女性からというのは珍しい。しかも明らかにこの女性は送り先の光源氏に興味を示している。

調べずに語って申し訳ないが、この時の夕顔の行動にはもう一つ理由が考えられる。夕顔は元の夫である頭の中将の側室だったが、正室から激しい嫌がらせを受けて姿を消している。手元には頭の中将の娘もおり、男主のない夕顔の家は隠れ住まいで苦労していたはずなのだ。だから、立派な身なりの貴公子が訪れ我が家の花を望まれたと聞き、夕顔はそれを頭の中将と誤解し「私はここにいます」と伝えたのではないか。確か誰かがその説を言っていた。原文がどうなっているかは調べて切れていない。

頭の中将と誤解して和歌を歌ったなら「内気」と評される夕顔の人物像もわからなくはない。そこは思い切りよく呼び掛けて当然の場面だと思う。

ところが、そうだとしても、その後の夕顔の行動はとても不思議だ。
夕顔に興味を持った光源氏は、その後、夕顔と昵懇になる。
頭の中将は訪れず、それは母親でもある夕顔の選択として有効だろうが、この時の光源氏は夕顔に対して顔も身分も隠しているという気味の悪い男なのだ。よく平気だったな、というのが私の偽りのない感想である。
また、夕顔は光源氏に寂れた某院なる怪しげな場所に連れられ、怖いと思いながらも断らずに付いて行き、そこで生き霊にとり殺されて死んでしまう。

夕顔は人間なんだろうか。

夕顔は六条の御息所らしき生き霊に殺されているが、むしろここでとり殺される寸前だったのは光源氏では。夕顔へののめり込みぶりといい、夕顔はあまりにも謎めいた人物である。
六条セコムが光源氏を助けたのではないかと邪推したくなる。

この不思議な話のきっかけが、女の方から男に書いて送った歌という珍しい和歌なのだから、和歌にまつわるエピソードとしてそれはとても面白い。

——

余談だが、男の人が自分以外の女性に浮気しているときに「その女はダメ」などと危険信号を発する女性は大体悪役である。六条の御息所はその最右翼として嫌われがちだが、「夕顔」が『雨月物語』的な物の怪物語だとしたら、光源氏は命を助けられたわけだよ。
とはいえ六条の御息所を褒められた人物として書かないのも、この物語の作者の手厳しいところであり、意地が悪くて良い作者だと思う。

 

#源氏物語

能楽鑑賞体験

能楽堂は行ったことがあり、狂言もちらっと見た事があるような記憶もあるけど、能楽は完全に初めてだった。

薪能だとかイベント性が強くて楽しそうなのもあるし。

ぶっちゃけ歌舞伎はいい演目いくつか観たにもかかわらず、あんまり好きじゃなかった。脚本が特に。人情物が痛くて。

 

もしかしたら能も似たような脚本があるのかもしれないけど、歌舞伎より一層観念的な表現のようなので物語もあってないようなものかもしれない。もうそのくらいでいいんです。オペラやバレエ級にストーリーは簡単で十分だよ!

 

初めて観たけどこれハマりそう。

その観念的で抽象的なものを具現化表現しているところがすごくいいね。しかも一定の形式の中で表現しようとしているところが楽器のようだよ。面白い。

 

2019年GWの記録

2019.4.27(土)

  連休初日。当初から混雑の見込まれる大型連休は出掛けず、引きこもって勉強する予定だった。積んでる新書をチラチラ読みながら過ごす。サークルの事務連絡あれこれやったり余裕来いてたら思いのほか読書がはかどらず焦る。

  あれも読めるこれも読めると興奮して『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』やらユダヤうんたらの新書と文庫色々とか手当たり次第開いてチラ読みして興奮する。どれも読み切れる気がしないが。

 

 

正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点 (中公新書)
 

 

しばらく読んだ。フェミニズムだけ多少予習していたのでそこは割と読めたが、初めて読むロールズなどかなり難しく感じた。今他に読みたいテーマがあるため首っ引きで読む余裕がないので、折角勧めてもらったけど一旦返そうと決意する。

 

2019.4.28(日)

  遊びに行かないと言った矢先に阿佐ヶ谷ラピュタへ映画鑑賞へ。中村錦之助主演『関の弥太っぺ』 を観る。江戸時代のやくざ者映画だが、なかなか面白かった。夜はGionへ。

movie.walkerplus.com

 

2019.4.29(月)

  あまり読書が進んでいないので、心を改めて読書を進める。

  『フランケンシュタイン』(青空文庫)読了

www.aozora.gr.jp

 

2019.4.30(火)

 国立新美術館『トルコの至宝展』へ。オスマン帝国の至宝の展示が主だったんだけど、ここから「意匠が中国要素あり? あれ、オスマン帝国の交易と美術の特徴は? この時の中国は?」と何も知らない事に気付き、時間もあるしとうっかりイスラーム史の勉強を始めてしまう。

www.nact.jp

 

2019.5.1(水)

  出勤日。

 

2019.5.2(木)

  田山花袋『布団』(青空文庫)読了。

  私は心底男性に冷たいと思った。美人への憧憬を聞くだけでキレる。美人への憧憬には相反して非美人への蔑視が表裏になっていると感じてしまうからだけど。もっと寛容になりたい。

 

  高校世界史のイスラーム単元を開いたら単語が長くて馴染みが覚えられなくて泣きそう。おまけにちょっと進んだら王朝が乱れ咲いてて死にそう。完全にしくじった。でも、その内本命の欧州史で絡んで来てためになるって信じてる……!

   しかしこのへん頭に入って来たら、新書のイスラームの基礎知識がだいぶ頭に入りやすくなって来た。勉強すると効果はあると確信して自分を励ます。

 こんなに何も進まないのに散歩に行ったらうっかり古本屋に吸い込まれて『ボヴァリー夫人』『ゲーテ詩集』を買ってしまう。

 

2019.5.3(金)

   イスラーム史勉強がなかなか進まない。中学英語のおさらいも始めた。進まない。積んでいたプラトンの『饗宴』も読み始める。進まない。

 『フランケンシュタイン』がかなり私の心に食い込んで来ており、廣野由美子先生の「100分de名著 『フランケンシュタイン』」の録画をフル再生。『批評理論入門』も読み返す。しかし廣野先生のメイン研究はブロンテ姉妹やオースティンなのかな……。シェリー夫人をメインでやる研究者ってあまりいないのだろうか。

ところで『批評理論入門』に、脱構築批評が。おっと、デリダのお勉強忘れているぞ。

   市民講座でデリダ入門取っちゃったのに、デリダの勉強が全然進んでいない。とりあえず新潮の『デリダ 脱構築と正義』を読みつつ、ソフトカバーの哲学入門解説書みたいなのを併読書として喫茶店に行く。念願だった喫茶店読書をキメた。幸せだった。

 

 

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

 

 

 

2019.5.4(土)

  こんなやってるけど、今月末はアーレントの『暗い時代の人々』の読書会もある。読み終えられるのだろうか。がんばれ。

  昼まで英語の勉強して、午後から早稲田松竹アラン・ロブ=グリエの映画二本立て。『エデン、その後』『快楽の斬新的横滑り』。夕ご飯は早稲田のスペインバルで。

 

2019.5.5(日)

  あれ、もう後残り2日? 朝からイスラーム史のまとめノートを作り、午後、 慌てて『饗宴』を読む。プラトンの著書の中では短いし入りやすいと思うけど、ゼロから状況を理解するのなかなか骨だわ。

  『饗宴』の情報を追っていて腹立たしい記事を見てしまう。これは一回脱構築されたほうがいいかもしれんなどとよくわからない浮かれ方をして、プラトン脱構築してフランス全土(学術界)を敵に回したデリダの勉強に力を入れる。しかしどんなに力を入れてもすぐにわかるものではないよね。それはそうだよ。それで普通だと自分を鼓舞する。なんでもすぐわかったような気にさせる解説するメディアがにくい。プラトンでそれやった〇〇が腹立たしい。

 

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

 

 

2019.5.6(月)

 ついにGW最終日である。明日から会社だと思うと一日鬱だった。しかも今日、文学フリマか。思い切って7日も休暇とって6日を遊び倒す日程にしたらよかった。

 文学フリマは結局行っていない。欲しい本は事前通販と人に買って来てもらって済んだし。

 しかし文学フリマすごいな。参加している人達がハイレベルですごい。かつて「自分と同じ空間に存在するのだろうか」とこの世のものとは思えなかったつわものの読み手書き手がごろごろと。しかも知識で殴らない系の。アンチ・マッチョタイプの。

 知識マッチョとだけはもう関わりたくない。それがいやで一人読書をずっとしていたのだ。

 まあまたそんな話は改めて。

 この日は具合も悪く、ほとんど1日寝ていた。勉強もあまり進まなかった。前日に読んだ『饗宴』の衝撃も強く、『饗宴』について考えるので精一杯。こんなに優れたギリシア哲学を、イスラームの学者は後年更に研究を進めたと聞けば、イスラーム史ももっと頑張って勉強せねばと励みになる。

 しかし具合が悪くて思うように作業が出来ない。心残りはアウトプットがあまりに少ない休暇だった事。もうすっかり放置状態のnoteに何か投稿しようと思いつくままに書き続ける。最初は「何故noteに書きたい記事がないのか」について書いていたらそのまま13,000字になった。しかし本当に単なる散文である。読み物としてもう少しなんとか成形出来ないかこねくり回してみようかな。

 

 ところで、私は国学者で唯一好きなのは上田秋成なんだけど。ウィキペディア読んだら上田を「ソフィスト」を見ている論者がいると知った。その後に『饗宴』読んだら本当にひどい悪口だわと感じる。もう日本文学に費やす時間はできるだけ減らしたいのだけど、上田秋成を追いたいなら本居宣長の事も知らなければならなくなるのかね。とほほ。私の今後の人生の残り時間、どう使って行こう。

 

bunfree.net

田山花袋『蒲団』(青空文庫)

 雑談で話題になった小説。未読だったので読んでみる。

 20世紀日本の自然主義文学の代表作または、私小説の走りともされているそうだ。35歳の惑い(21世紀初頭の現代においては40歳くらい? 現代の30代は若いので比較が難しい)というか、中年の危機というか、愛する女と結婚したが女が子供産んで「変貌」して心が離れてきた所に現れた若い将来有望な女学生に心惹かれるおじさんのお話だった。

 若い頃器量悪い問題で傷を負った身としては、文学者ともあろう男性が

 

"女性には容色きりょううものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色ぶきりょうに相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。"

 

 とは何事だろうかと絶望する。

 仕方がないと思うのは、どうやらスタンダールという男もこの類いという疑惑がある。賢かろうが文学者だろうがそこはろくでもないのだ。学識者であることと人格の高さが一致しない好例と言えよう。生まれ持った器量が優れないという点に置いて既に劣った存在だと見做されるのは苦痛だが、直接関わらないので関係ないと思うしかない。こういう言動を見聞きするたびに若い頃の私は傷つき、人にまともと思われるために装飾に励まなくてはいけない、男性に評価されなくてはいけないと血迷ったものである。そんなことしたところで、こいつらに蒲団の匂いを嗅がれるだけだというのに。勿体無かった。

 

 とはいうものの、この作中の竹中先生という男が実際に愛した横山芳子なる女学生は、竹中先生の主観において美人とも不美人とも定かでない。容色良い女に憧れるのは竹中先生の漠然とした願望であり、現実には未来ある若い生命体の日向の日差しを受けた玉虫色の輝きに捕らわれたということであるようだ。

 どこまでも客体でしかない女。私小説だからそうに決まっているが、これ男女逆だったら男性はどう思うのだろう。一人格と認識されず、夢想の中の愛の対象でしかない男。

 その点で不快度は高いが、文章は流石に洒落た言い回しに長けており、暗い雰囲気はなく小気味好く、ユーモアに富んでいる。そこが面白いと感じた。

 短い小説なので暇つぶしに読んでおけば、この小説との間テクスト性を持つ他作品に遭遇した時に、読書がより豊かになるのであろう。そういう意味で実りある読書だった。

 

 

『蒲団』田山花袋青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1669_8259.html

 

一長一短とはいうものの

 アーレントが『人間の条件』の中で提示している「私的領域」「公的領域」とはいかなるものかと考えている時に、私はかつて読んだ橋本治の『窯変源氏物語』という作品を思い出した。これは橋本治が独自の解釈で現代語訳した『源氏物語』である。ただ、今手元に作品がなく、以下の内容は記憶を頼りとしている事をご容赦願いたい。

 この作中に、光源氏の言葉として以下のような一文が出てくる。

「私は何をしても許される身なのです」

 この言葉は、確か1980年代末に発表されたアニメ映画『紫式部 源氏物語』という作品のキャッチコピーでもあった。そして当時の古典文学ファンの間で少し流行った言葉だったとも記憶している。ちなみにこれは「花の宴」において光源氏が右大臣の六の君(朧月夜)と出会って口説いた時の言葉である。「まろは、皆人に許されたれば」と原文にはある。「理想の男性」と見なされる光源氏を象徴するような言葉ととらえられたのかもしれない。

 橋本治もまたこの言葉を気に入ったのか、光源氏の言葉として同作中で何度も使っている。

 そして光源氏が逝去して幕を閉じる正編の後、『窯変源氏物語』の新たな語り手は光源氏から紫式部に移る。題名のみで本文の存在しない「雲隠」の帖は、正編から「宇治十帖」に移り光源氏亡き後のこの世を書き始める紫式部の動機が語られている。

 その中で、紫式部もまた語る。

「私は何をしても許されるのです」

 そして言葉は続く。

「なぜなら、私のしている事を誰も知らない」

 

 光源氏が「私は許される」と語る根拠は、概ね彼が帝の愛児である事だだろう。では紫式部の根拠は何だろう。作中では明言されていなかったと思うが、私はこれこそが、公的(パブリック)な存在とされなかった「「女」の書いたもの」の事だと考えた。天下人の藤原道長が読み、多くの高位の貴族が読んだ『源氏物語』。しかし本質的には誰一人この作品をまともなものとして相手にしていなかった、という意味ではないか。

 何を書こうと本当の意味では相手にされず、存在してもいない。だから許される。

 皮肉である。

 「帝の愛児」を根拠とする光源氏と完全な表裏だ。

 しかし読み継がれた物語は、江戸時代に国学者によって公的地位を確立される。誰も知らない物語は、国を代表する文学になった。

 今現在からこの書かれた物語の経緯を考えると、物語を書く余地のあった事自体が、「私的」な領域に存在した女の、その「私的領域」にも一長一短があった、と考える根拠になるかもしれない。その面が確かにある。

 でも、私はそう結論するのに迷いがあった。

 「だから”私的領域”も悪いものではない」と考えていいのか。

 本当はここで「私的領域」という言葉を使うのは不適切で、どちらからというと「公的に認められないもの」と表現した方が実態に近いように思うが。

 

 光源氏は「私は何をしても許されるのです(誰だって私の事を許すのですよ)」と傲慢な事を口にして女性と関係を持った。その結果、光源氏は自ら明石という外れた土地に都落ちする事になった。つまり、彼の行いは許される事でも何でもなかったのだ。

 橋本治は度々光源氏にこの言葉を口にさせた。一体彼はいつこの言葉を口にしていたのか。記憶の限りだが、この言葉を口にするとき、光源氏はいつも強く抑圧されている。彼の叶えられない願いは、父帝の后との恋愛だからである。彼は本来性において、「私の思いは叶えられるはず」と繰り返し、自分に言い聞かせ、許されない事を行使した。だから光源氏は罪に問われる。

 では紫式部はどうなのか。ここに作者として描かれる紫式部が、「私も許される」「何故なら誰も私をまともな存在だと認識しない」と語る事に、果たして「一長」なるものが有り得るのだろうか。

 

 私の理解も浅薄だからわかる。これを安易に結論づけるのは危うい。例えば、では『アンネの日記』は。「『アンネの日記』は名作として語り継がれる」それをその成立過程について「だから悪い事ばかりでもなかった」と言える訳が無い。

 ここの整理がまだ上手くつかない。状況が何らかを生み出したが、それは状況自体の肯定にはならない。でも、そこを悪用して状況を継続させたり肯定する言説は起こり得る。もう少し考えを進めて行きたい。

2018.11.19mon~11.18thu

2018年11月19日(月)
 カポエイラレッスンへ。ビリンバウに触らせてもらう。皆よくこんな複雑かつ重くて腕の力の必要な楽器弾けるな。すごいよ。
カポエイラは腕の力も必要なんだとだんだん気付いて来た。両腕どころか、片腕で自重を持ち上げられるところまで体を鍛えないと初級技もやり抜けない。それだけ腕の力の強い人なら、赤ん坊くらいありそうな重さのビリンバウも軽々持ちあげて、動かしながら演奏出来るだろうし。


2018年11月20日(火)
 体調を崩して婦人科へ。ついでに眼科へコンタクトの処方もしてもらいに行く。だんだんわかってきたけど、アラフォーとは「体調が悪い」がデフォルトのようである。具合は悪いものと考えて行動計画を立てた方が良さそうだ。体力付けたい。
 ろくに運動して来なかった基礎体力も筋力も何もない疲れやすい私のようなタイプには、カポエイラは本当に良いように思う。他の団体の事はわからないけど。攻撃技を習ったからって護身以外に悪用しない心を持った人は、皆カポエイラをやったらいいと思う。


2018年11月21日(水)
 用賀の無名塾仲代劇堂へ映像版『令嬢ジュリー』(1991)を観に行く。
 

www.mumeijuku.net


2018年11月22日(木)
 体調が戻っていないのでカポエイラの練習を休む。代わりにカポエイラの動きを取り入れたダイエットエクササイズDVD『POMBA』をポチる。カポエイラの動きに近いサンバのステップも含まれているらしい。
 私は社交ダンスでもタンゴでも日本舞踊でも、とにかく振付が覚えられない。ステップも覚えられない。サルサやってる知人は「サルサバーに行く人はステップひとつしか覚えてなくても突入して踊る。そして浮いても後悔しないし自分に言い訳もしない」と言っていた。私にはステップ1つで乗り切る度胸もセンスもない。ともかく地道に体に覚え込ませる道しかない。
 ステップを覚えられないのは、動きに慣れてないし、覚え慣れてもいないからではないか。そう信じて、動きになれるべく『POMBA』で練習! して! みる!

youtu.be


カポエイラの基本、ジンガやフレンチ、エスキーバも

2018.11.12mon~11.18sun

2018年11月12日(月)

  市民講座へ。実はまた具合が悪かったんだが、連続で休むの嫌だったので頑張って出る。夫も珍しく発熱。講座後の飲み会は欠席し、病病看病に帰る。

 

2018年11月13日(火)

  『アーレント最後の言葉』(講談社メチエ選書)を無理やり読了する。

 

2018年11月14日(水)

  途中で休んでたディドロ『修道女』を読む。

  原稿1と原稿2の著者校正が同時に上がってきた。なんできみたちはセットでやって来るのか。校正を戻す。

  代官山へバロックダンス付きの18世紀フランス宮廷再現演奏会を観に行く。素晴らしかった。この演奏会にお誘い下さった絵本作家の吉田稔美さんとご一緒だった、舞踊家の甲斐ランベールあきよさんと少しお話しさせて頂く。最高だった。

  現代に至るペアダンスに繋がる複数人舞踊の流れがまた少しだけ理解出来た。求愛ダンスなるものは、求愛それ自体をかたどった舞台芸術、なのかもしれない。

 

2018年11月15日(木)

  アーレントの市民講座。私はまるで市民講座マニアである。いや完全にマニアでしょう、この予定の入り具合。

  前日に「15日はワインの日」という解説を演奏会のトークで聞き、今日がボージョレ・ヌーボーの解禁日だと知る。折角なので皆さんと少しワインを飲みたくなる。オーガニックワインを出して頂いた。多分ボージョレ・ヌーボーよりうんと美味しい。

  二次会で友人の同居人が古楽愛好家だと知る。しかもかなりのマニア……。うわあ、お話し聞きたい。また音楽熱が盛り上がって来るよ。クラシックファンの中でも古楽愛好家は珍しいと聞いたのだけど、結構いますね……。なんでなの。

 

2018年11月16日(金)

  新国立劇場ハロルド・ピンターの『誰もいない国』を観に行く。冒頭で壊れたレコードの掛かる演出がある。つまりこの話はこれに象徴されているのではないか。おじいさん二人がレトロな壊れレコードよろしく、意味をなさなくなった音を延々出し続ける。しかしそこまで象徴して定義するのが適切なのか、この脚本は。

  ピンターの演劇は割と好きなんだけど、ともかく難解。難解で、役者とは、小道具とは、とあらゆるものの意味を考え直し、演劇というものがなんなのかを考えずにいられなくなるように思う。そして各俳優がどうそれを表現するのか、しかも装飾がほとんどない生活感が全てのような素朴な難しい役柄を演じるのだ。むー。これは。

  帰宅してメールに気付いたら、終わったと思ってた原稿の依頼がもう1ヶ月続くらしかった。嬉しいけどまた体力的に辛そうだ。

www.nntt.jac.go.jp

 

2018年11月17日(土)

  1ヶ月振りにカポエイラに行った。なんたる。

 

 全てが退化してそうで怯えていたが、思ったほどゼロに戻ってはいなかった。でも、アラフォーの体の衰えスピードは速い。技を忘れるというより、出来て来た体の衰えが早い。

  カポエイラの練習は結構ハードだ。筋トレもそれなりの強度である。私は初めの内なので、出来なくても怒られたりはしないが、やっぱり皆さんががっつりやっているのに一人だけ付いていけないのは情けない。情けなくて、行くのが怖くなる。でも、自分との闘いだね。頑張ろう。

 

2018年11月18日(日)

 筋トレもがっつりやったというのに、それほどの疲労はなかった。

 最近エアコンを使っていないので良かろうと、洗濯2回分を乾燥まで洗濯機に任せてしまう。しかしやっと洗濯物が片付いた。図書館に行ったら掲示板で近所の社交ダンスサークル開講のお知らせを発見する。おおお、ついに我が町にもサークルが出現したのか!