読んだり書いたり

読んだり書いたり

ライター白山羊ひつじのよしなしごと

2018.11.5mon~11.11sun

2018年11月5日(月)

  10月末締切の原稿の取材に行く。面白い話だった。これは原稿にもしやすいだろうと、余裕をこき、夜、夫と近所のスペインバルに飲みに行く。

 

2018年11月6日(火)

  一日中原稿。夕方には仕上がった。いいペースである。その後、別の原稿作成の準備に入る。

 

2018年11月7日(水)

  原稿チェックも終わって入稿。『ゲーテの「親和力」』は読み終わらない。原稿2の作成準備を続ける。

 

2018年11月8日(木)

  通勤時も昼休みも『ゲーテの「親和力」』を読む。講座開始前に滑り込み読了。しかし予定を無事こなせて助かった。充実感。時間は空いていたが、カポエイラどころか原稿2の準備続きをする体力も失って倒れるように眠る。疲れた。

 

2018年11月9日(金)

  原稿2を夜中に仕上げて入稿。終わった。疲れた。

 

2018年11月10日(土)

  半年ぶりに美容院へ。この2年くらい、夏場はパーマでまとめ髮、秋以降は前下がりボブでループしている。しかし夏のパーマが結構残っているので外ハネボブで様子を見ることに。自分では外ハネあまり好きじゃないんだけども。

  15日の市民講座に向けて課題本『アーレント最後の言葉』(講談社メチエ選書)を読む。元々フランス文学研究の方が書かれた本らしい。論文でありながらダイイングメッセージを追う推理小説的な構成になっており、そういうのがフランス文学的らしい。構成が面白い。

 

2018年11月11日(日)

  友人の引越し祝いに行く。食べ物持ち寄りなので、パスタサラダを作ったが味覚障害かと疑うほど油っぽい仕上がりになってしまって反省した。あと、最近仕事が忙しい事を盾に料理をさぼり続けていたら友人に「やらないと下手になる」と怒られた。反省した。

 

2018.11.1thu~11.4sun

2018年11月1日(木)

  会社の飲み会だった。途中で切り上げてカポエイラに行きたかったが、帰るに帰れず、帰宅が遅くなり、疲れ果てる。

口直しに『獣になれない私たち』3話と『フェイクニュース』前編で野木亜紀子脚本三昧。『フェイクニュース』は、『逃げるは恥だが役に立つ』及び『アンナチュラル』で野木亜紀子脚本のファンとなった私のど真ん中に来る内容だった。私の弱点がモチーフになっていて所々薄眼で画面を観る展開だった。辛い。が、主人公の女性記者がテコンドーの練習者であり、作中でセクハラ行為から逃れるために相手に蹴り技のコンボを決める場面がある。「〇〇からの☆☆、★★」と決めた技を女性記者は語っていた。これは、カポエイラなら「フレンチからのアルマーダ、アルマーダ、コンパッソ」というイメージか、と連想し、カポエイラが懐かしくなる。

ちなみにカポエイラの技を訳すと「前方内回し半月蹴りからの、回転内回し蹴り、回転内回し蹴り、低空回転半月蹴り」かな? 最後のコンパッソで後方にぶっ飛ばせると距離も取れて良さそうですね。カポエイラもヒットすると相手が全治1ヶ月等になるんだろうな……。

youtu.be

 

 

2018年11月2日(金)

  市民講座の日。『源氏物語 宇治十帖』を読む。毎回とても面白い。

 

2018年11月3日(土)

  お手伝いで朝から掃除へ行く。帰宅すると昼過ぎていて1日あっという間に。図書館に仕事用の資料のコピーに行く。やっと『親和力』を読了。面白かった。休む間も無く次は本丸のベンヤミンの批評『ゲーテの「親和力」』へ。

 

2018年11月4日(日)

  うむ、とても難しい。死ぬ。

 

2018.10.29mon~10.31wed

2018年10月29日(月)

カポエラ行こうと構えていたけど、休みの日だった。

 

 

2018年10月30日(火)

  京橋の国立映画アーカイブにてコッポラ監督『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)を夫と鑑賞。『地獄の黙示録』の次回作品だそうな。ラスベガスに住む中年の男女カップルの破綻と再生を描く恋愛ドラマ。全編セットで撮影された映画であり、脚本も類型100連発の見事な「人工物」映画。フィーリングが合い、仲の良かった男女カップルが些細な事から皿の飛ぶ大げんかに発展し、破綻。お互いに新しい相手を見つけ(しかもお互いに元の恋人よりも美形度が高く人柄も良く将来性も高そうな)、新しい恋に夢中になる。しかし新たな幸せを手に入れたはずが、やはり元の恋人を忘れられない男が女を取り戻しに出る。女が飛行機で新しい恋人と遠くに旅立とうとするところを寸前で飛行場へ追い掛けに行く男。女を引き留めるために、泣きながら女の望む歌を衆人環視の中うたう男。それでも女は去り、残された男は女と暮らした部屋に一人戻って泣き濡れる。するとそこには、旅立ったはずの女が再び戻って来たのだった。独立記念日が交際確立日だったり、その記念日に破綻が起こったり、とにかく類型。それにもかかわらず、引き込まれて観てしまう。そこにこそ、私はコッポラや脚本や演技のすごさを実感した。

 

2018年10月31日(水)

  引き続き『親和力』を読む。ほか、一本入稿。

 

 

2018.10.15mon~10.28sun

10月15日(月)
 夫、社交ダンスデビュー。ありがダンススタジオ様の大サービス体験企画で一緒にジルバを踊る。夫は前日に予習したとはいえ、ステップの覚えが早い。私より格段に早い。く、悔しい。夫と踊って心からダンスを楽しいと思う。ダンス自体の楽しさは先生が一緒に踊って下さる時の方が格段なのだけど、プロの方にリードしてもらう場合でなく、素人同士で踊る場合のソシアルダンスの楽しさについて。こうして心を開いて気を許している相手と一緒に踊れる楽しさ。いいなあ。


10月16日(火)
 まさかのゲーテのブームが来てしまう。
 もうすぐ安部公房読書会(10/26土)なので、課題本の初期短編集『水中都市・デンドロカカリヤ』を読まねばならないのに。
 しかも90年代生まれの人が『ドラゴンボール』を面白くないとくさしているブログをTwitterの話題で拾ってしまい、そっちを熱心に考えているという。振り返ると私は気力を要するお勉強を棚上げして野次と文句に熱中しているようだ。実に愚かである。

 

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10月17日(水)
 野木亜紀子脚本『獣になれない私たち』の第一話を遅れて観た。更に第ニ話でヒロイン晶の恋人の京谷という男が4年間同棲していた元カノを飼っていた事が明らかになった。熱心に叩いた。燃えて来た。しかし『アンナチュラル』で私がドはまりした野木脚本に求めるポイントは今回はちょっと違うかも。


10月18日(木)
 悪夢(巨大なめ××の群れに遭遇)に目を覚ます。以後、眠れないまま朝。つらい。
 カポエイラに行った。


10月19日(金)
 市民講座『宇治十帖を読む』。「匂宮は薫が『清廉かつ求道的な私』を保ちつつ惑うための隠れ蓑」という存在意義に目鱗。確かに薫がわざわざ匂宮を宇治通いに巻き込んだのは不思議だった。単に匂宮に自慢して「おまえも目が高いね。よく見つけたな」と言わせたいからかと思ってた。そういうんじゃなかった。毎回小説の読み方を丁寧に教わっている。
 講座の受講者の方との話の流れでジェーン・オースティンを擁護してしまい、ものすごいオースティンファンかのような認識をされ、あとで「すまないね」みたいな事を言われてしまった。いや私はむしろあまりオースティンを評価してないです(と、伝えたつもりだったが)。ただ、いいと思っているところもあるので、納得の行かない批判には折れたくなかっただけで。むー。自分の気持ちを伝えるの難しい。


10月20日(土)
 アールデコの面影を持つフランク・ロイド設計の明日学園自由館にて、ルネサンス時代の宮廷音楽を舞踊付きで鑑賞。演劇的要素のある舞踊で、とても面白かった。リュートが聴けて嬉しい。


10月21日(日)
 体調がいよいよ悪くなった。


10月22日(月)
 ものすごく体調が悪い。市民講座休む。つらい。


10月23日(火)
 じょじょに回復。


10月24日(水)
 体調を崩している間、夫が料理してくれたので、回復した暁に頑張って料理する。久々にニース風サラダとブイヤベース風スープを作る。物々しいが「風」なので全て簡単料理だ。


10月25日(木)
 インフルエンザの予防接種を受けて弱る。
 弱るので余計な事を考えてしまう。最近、弱い立場の人がいじめられているのをゆるしてはいけないとお節介を焼いた。こういうとき、「その人のためにした」と思ってはいけなくて、「私は自分の良心に従いたかった。従えて良かった」と考えて終わりたいと考えている。でも、最近、その割り切りが下手だ。というか、その割り切りを忘れかけていた。


10月26日(金)
 安部公房読書会の課題本『水中都市・デンドロカカリヤ』が全く読めていない。どうも気が進まない。気が進まないと本当に読めなくなる。子供か。


10月27日(土)
 安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』読書会の日。読み切れなくて大幅に遅刻。しかし皆さんの話を聞いていると、私が詠めてませんでしたすみません、という素直な気持ちになる。皆で読む場のありがたさ。


10月28日(日)
 世田谷文学館へ『筒井康隆展』を観に行く。
 改めてその業績の膨大さ、作風の多様に驚く。こんな巨人的作家はもうなかなか現れないかもしれない。


 ゲーテの『親和力』を読み始める。『希望名人ゲーテ×絶望名人カフカ 文豪の名言対決』で予習しておいてよかった。ゲーテの博識と多芸に裏打ちされた豊かな内容に楽しませてもらう。一日100ページ読めば4日で読了出来る計算だがさて如何に。

 ところで本好きゲーテ好きの人に「『親和力』読みましたか?」と聞いたら読んでないらしい。主著ではないのか。

 

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2018.10.1mon~10.14sun

10月1日(月)
 台風だった。


10月2日(火)
 取材へ。超成功した人にインタビューに行く。
 余談で「欲望なるものがいかに人間の推進力となるか」という話を聞く。確かに。欲望は他人に知れると気恥ずかしいものである。そして恥ずかしいほど強い推進力になってくれる。

 例えば私は1千万くらいするカルティエのダイヤ付きトリニティブレスレットが欲しい。なんらか大きな社会貢献をした暁に国からもらったりしたい。というのは親類に買ってもらうと自分の財産も削れる感があって嫌という通俗的な理由と、あと他人からこの価格のプレゼントをもらって気兼ねなく受け取れる理由が私には思いつかないという事。なので結局公からもらいたいという話になる。何故これがいいかと言えば、私は三位一体(トリニティ)というものが好きでその象徴であるからということ。更には、カルティエのダイヤモンド細工の精度が素晴らしく、三連ブレスという状態で常に装飾同士が擦れ合っても傷にならない仕上がりだから。その品質の高さを所有して眺めたいという欲望がある。
 しかしこれまだ、ある種の人に話しやすい欲望である。ただ私のようなあらゆる意味で貧乏くさい人物が「カルティエが欲しい」と口に出すのは、その釣り合いの取れなさゆえに全くお洒落ではない事だとは思う。こういうのはハンナ・アーレントみたいな女とか、輝かしい業績の女性に似合う話題だろうと思う。

 さて、で、遠回りしたが、醜い恥ずかしい欲望の方。
 
 私は、三連リングが好きである。指輪もブレスレットも三連に心惹かれる。で、そんなときに私は、「カルティエの三連リングがいい」と思ってしまう。何故か。それはカルティエだからである。その価値──いや、ぶっちゃけよう、その価格を、わかる人が多いカルティエだからである。
 なんならもっと露骨にLOVEシリーズでも望ましい。
 時々、もしそういうアピールを持っていたら、色々と楽なのではないか、と考えてしまう事がある。マウンティングされるといった、日常の余計な雑音を振り払ったり忘れたりする事が出来るのではないか。
 私の日常は幸いにして結構満たされているのだけど、他人から見たらそうは思えないものでもある。子供がいなくてカワイソーとか、不美人でカワイソーとか、モテなさそうでカワイソーとか、千葉のねずみの遊園地に行かなくてつまんなそうな人生でカワイソー、とか、他人から見て色々と可哀想がるポイントが多いのも私である。こういう事を可哀想がる人に、「私幸せにやってます。好かれたい人に好かれてるし、関わりたくない人と関わらないで済んでるし、やりたい事やれてる」と話してもまず通じない。価値観が違い過ぎるから。
 そんなときにカルティエ様のLOVEって彫ってあるやつですよ。
 買ってもらっちゃった、あなたも買ってもらえば? これで終わり。時短達成。
 これでカルティエは普通、という人々の間だとまた話は違うのだろうけど、私の生息域の困る人達はカルティエが非日常なので、使える。

 要は「身の丈に合ってない、だからこそそれを手に入れたら自分も身の丈が増えそう」みたいな他力本願アイテムへの欲望。まあその欲望が達成されるときには、身の丈も合っているものだろうけど。そういう意味では、身の程知らずなものを欲する、そして欲するから頑張る、というのはやっぱり王道なのかも知れない。さすが成功者の言葉は違う。

 ただ気になるのは、その欲望を達成した方々の顔つきを見ていると、なんとなく業も積んでる感じがするところ。有体に言えば政治家的悪相に変貌する人も目に付くという事。そこまで行かないにしても、「高徳の僧侶の様に清らか」とか「法王様のようなお顔」という成功者はあんまり見ない。大金を稼いでなおかつ清らかでいるというのは、どうすれば達成出来るんだろうね。清らかな成功者ってどこにいるんだろう。そういう人に会って話を聞いてみたい。

 まあ清らかな人は、儲かるとそのまま寄付しちゃうのかも知れませんね。清流の流れは速し。金も手元から素早く流していく事で清さを保てるのかも知れない。


10月3日(水)
 原稿した。上手く書けなくて困り果てる。


10月4日(木)
 原稿した。ダンスのレッスンもカポエイラのレッスンも休む。原稿が仕上がらない。


10月5日(金)
 いくらなんでも書き上がってるだろ、普段なら半日で仕上げる内容の原稿だよ、と、思っているけど上がらないものは上がらない。市民講座も休む。書き上げてもいいのかなんなのか確信が持てず、夫に見てもらう。ダメ出しを受け大幅に書き直す。
 こんなポンコツと化した私の代わりに夫が家事をしてくれる。ありがたすぎる。
 夜間になんとか仕上がる。


10月6日(土)
 入稿。疲労で倒れる。


10月7日(日)
 まさかの原稿手間取りで知らない内に10月が一週間も過ぎていた。
 気力回復して図書館に行く。ベンヤミンのパサージュ論やらを借りて来る。


10月8日(月・祝)
 パサージュ論をちらちら読んで徐々にベンヤミンワールドなるものがおぼろげに見えて来る。彼は何をした人だったのか。何を考えて何を書いた人だったのか。全くわからんところから、少しわかるようになって来た気がする。


10月9日(火)
 ディドロ『修道女』を読む。面白い。語り手のシュザンナの脳内イメージは、もう少し後の時代のマリー・テレーズ・マルタンリジューのテレジア)だったけど、これはそれと違うようだ。


10月10日(水)
 『ねほりんぱほりん』3シーズンの第一回「マッチングアプリにはまる人」を観る。
 現代の恋人探しや結婚相手探しはマッチングアプリに履歴書を登録して行うのか。これは美男美女&金持ちの独壇場ではないだろうか。
 恋愛も結婚も格差社会だね。これ、一般教養に乏しくかつ経済力の貧しい層の人ほどアンマッチで離婚を繰り返す事になる気がする。
 一般教養の方があれば、まだ円満家庭を継続する可能性は高いのだけど(そして経済力が高くて一般教養に乏しいとやっぱり力任せに離婚する。でも経済力あって死なないからまだよい)。かといって一般教養も万能ではないし、離婚には様々な事情もあろうから一様には言えないわけだが。
 この問題気になってならないのが、離婚すると現代日本では女性の人生がとにかく苦しくなりやすい事。男性側の事はほぼ聞かないのだけど、浮気して離婚した男性が浮気相手と再婚するという話はあまり聞かない。浮気相手と別れて一人で暮らしているという話をよく聞く(本当かどうかはわからないけど)。男性も、離婚してもそうそう幸せを掴んでいないようだし。
 法的家族になって助け合う事すら困難な社会。ほんともうどうせいというのか。国民の生活にも幸せにも何の責任も持ってないよな、この国。


10月11日(木)
 ベンヤミン講座第2回。少しはベンヤミンの思想に触れられたと思ったけど、受講したら難易度が高くてまた振り切られる。ただ、後で思い出してみたら、この「手が届かないよー!」という難易度は、実はとてもいいのではないか。受講して「ついていける」と感じたら、多分もうそれ以上勉強しませんもの。
 しかし当日、私はベンヤミンショックを受けた失意のまま2週間ぶりのカポエイラレッスンに行き、自宅練習をさぼっていたがためにまったく体が動かなくなっていて先生を失望させてしまうのだった。泣きっ面に蜂。あっちでもこっちでも私はだめ感が。後でフレンチとケイシャーダやったら、さすがにそれはかつての練習貯金が生きていて、少しだけ助かった。退行したり忘れてしまったりはしていなかった。もっと日々の練習頑張らねば。どこで練習貯金が成果に繋がるかわからないものだ。


10月12日(金)
 頭木弘樹『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ: 文豪の名言対決』 (草思社文庫) でゲーテのお勉強。次回のベンヤミン講座は論文「ゲーテの親和力」が題材で、そのためにゲーテの小説『親和力』を読んで臨むこと推奨なのだ。
 『親和力』ってゲーテの書いた小説の事だったのか、と、驚いた顔をしたのが私のレベルであります。しかも分厚い……。泣けて来る。
 ゲーテという男はともかく偉大な存在である。文学者であり思想家であり、恋多き男であり、政治家であり……ダンスは踊るわ詩は書くわイケメンだわ、何か欠点はないのかと意地悪な目線を向けたくなるような人物である。故に私は興味がなかった。
 しかしこのゲーテ。やはり只者ではない。ものすごい愛されキャラなんだよね。こんなにすごいのに。そこがまた器用で憎たらしい、かと思いきや、振り切ってる。「ゲーテおじさんなら仕方ないよ」と思ってしまうんだよ。何故そう思うのかは前述の「絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ: 文豪の名言対決」を読むよろし。

 

文庫 絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ: 文豪の名言対決 (草思社文庫) フランツ カフカ 

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10月13日(土)
 夫の出る武道の演舞大会を観に行った。
 夫の出番には間に合わなかったが、楽しかった。ちょっと競技ダンスの競技会みたいだと感想したら「たぶん似てるよ」と夫が言う。1分程度の競技で審判に点数を付けられて勝敗が決まるらしい。
 夜はカポエイラレッスン。私は組手のジョーゴが苦手なのだ。下手糞なのでどうしていいかわからないから、相手にも困った顔をされてしまう。うーん、どうしたらいいのか。と、YouTubeをあさっていたら、ゆっくり動くジョーゴを見つける。これこの流派がスローペースと言う可能性もあるが、確かに私が速いスピードで動こうとするのは無茶だ。スピードを落とそう、と、気付く。多分少し上手くいくようになった。やっぱり練習あるのみだね。床を這う動きが全部難しい。


10月14日(日)
 一日中寝た。『修道女』をゆるゆる読み進める。いやそろそろ『親和力』を読み始めないと……。安部公房読書会も近付いて来たし、課題本が積まれるばかりで焦る。

2018.9.24mon~9.30sun


9月24日(月・祝日)
 図書館の参考図書室に行く。先日にアーレント読書会で教わった哲学事典を探しに行く。
前は無作為に探していたけど、捜索ガイドを頂けると自分の調べ物のの方向性も定まるし、今自分が何をしているのかもわかって来るし、学習がはかどる気がする。


9月25日(火)
 月曜にいくつか借りて来た社交ダンスのCDを聴く。iTunesのジャンルには「JAZZ」と表示されるのだけど、社交ダンスのスタンダード曲は広義のジャズに含まれるのだろうか。
 私は社交ダンスの踊りはどれも好きなのだけど、カウントの練習動画でなく、昭和から受け継がれたジャズ曲で聴くとなんだか古めかしいものを眺めている気がしてしまう。レトロ趣味とも違って、なんというか、ださい。
 教室のレッスンで聴くダンス曲は素敵なんだけど、自分で無作為に選ぶと社交ダンス曲はどうも……。
 私としては、もっと社交ダンスに近付きた。しかいs、ダンスは習い始めなのでダンスよりも音楽に馴染みが多い。ダンスよりも音楽の好き嫌いがはっきりしている。すると、嫌いな曲で踊りたいとは思えない。出来れば自分にとっていいと思う曲で踊りたい。

 詳しい人に教えてもらえると、社交ダンス曲も素敵なので、そういう曲を教えてくれるWEBがあればありがたいのだけども。


9月26日(水)
 雨。気分が乗っているので、また図書館へ。
 苦戦しているヴァルター・ベンヤミンの著書だが私はベンヤミンに少し親近感が沸き、そういう感情を得る事で著作に馴染めるのではないかと考える私のような人間は、この気持ちの続く内にもう一度ベンヤミンの著書に触れたかった。
 ベンヤミンと言う人は、私の理解限りでは、生まれ育った場所での幼年期の幸福に重きを置いているようだった。そしてベルリンの中産階級ブルジョアジー)である身の上にも意義を見出している。彼は生まれ育ったベルリンという都市を愛し、第一次世界大戦の戦火にも負けず彼は社会の変化に対して圧倒的劣勢な「中産階級=市民」で居続ける事を貫く決意をした。
 まだ私にはよくわからないが、ベンヤミンは生まれ故郷のベルリンに居続けた。彼がベルリンという都市について論じているのかまだ知らないが、パリに移住した時に彼はパリのパサージュ(商店街)を論じている。一体なんでベンヤミンはパリの商店街を論じようと思ったのだろう。パリのパサージュの何を書こうと思ったのだろう。一体何がベンヤミンの心にそれを論じようと思わせたのだろう。
 ベンヤミンの心などわかる訳がないのだが、ベンヤミンがパリのパサージュの何を目に留めて論じたのか知りたくなった。


9月27日(木)
 アルゼンチンタンゴのレッスン半月ぶり。なんということだ。
 今日は初めて男性の参加者がいた。その方を含めて初めて一緒に練習する人が+2人。計6人でレッスンを受けた。
 初めてグループレッスンを楽しく思えた。これまでは「こんな下手糞の相手で申し訳ない」と申し訳なさばかりが先に立っていたが、なんだか今日は楽しかった。
 色んな人と踊るのがサロンタンゴであり、色んな人と知り合うのがサロンタンゴだからなんだろうか。入門コースなので今日の動きはサリーダだった。サリーダを5人と入れ替わりで組んで踊る。男も女もリード役もフォロー役もやる。色んなサリーダがそこにはある。その中で、一人一人違ったサリーダを踊る。その全てが、その人と私の対話だった。その人と知り合うコミュニケーションだった。その中で、好きだと思う人、なかなか分かり合うのは難しいかも知れないと感じる人、いろいろいた。でも、分かり合えたらいいなと思った。その「出来ない事の壁を越えたい」という思いを持った事が幸せだった。

 タンゴの後はカポエイラ。先週木曜は休みだったので一週間ちょっと空いてしまった。
 カポエイラもいよいよ7回目。初めて2か月目に突入だ。
 今日はいつも一緒にレッスンを受けているAちゃんがお休みだった。そして代わりに初心者のBくんとビギナーペアであれこれレッスン。レッスンに行くたびに何事も超下手糞だなと自分の無力を思い知るのだけど、そして下手糞の立場で集団の中にいるのは辛いのだけど、でも、まあそれも良いよねと思う。卑屈にならずに私は私で行こうと思う。先生は私が下手くそな分、練習しているのに気付いてみていてくれる。

 ちなみにタンゴと同じでカポエイラもコミュニケーションだ。ジョーゴという組手があるから。
 私は前に、海外出身者の人がビギナーの私をジョーゴに誘ってくれているのをそうと気付かず、結果的に無視してしまった事があった。些細な事だけど、私がそれをされたら傷付くよという点から気にしていた。なんとか、「すまん、言葉がわからなかったのだ」と伝えたい、というか、私は無神経で馬鹿ですが反省して気を付けるのでまたジョーゴして下さいと伝えたかった。こっちから話し掛けて、もしかしたら少しコミュニケーション取れたかも。練習仲間になれるとよいなあ。


9月28日(金)
 今日も雨。カポエイラは7回目くらいだけど、毎回まだ筋肉痛になる。毎回新しい動きを習うからだろうか。この筋肉痛が快感なんだよね、カポエイラは。


9月29日(土)
 体調を崩してグロッキーだった。自分的に難易度の高い事は何も考えられず、YouTubeで婚活KOKOの動画をあれこれ観てしまう。ある動画でお見合い婚を推奨していた。わかる。結婚相手を探しているときは、自分の好みにこだわるのは結婚と言う目的を遠ざける。婚活というのは、自分の偏見に満ちた恋愛相手の好みをぶち壊して幸せを獲得する行為だ。
 私思うに、自分は自分の人生に良いパートナーがどんな人物かを案外わからないものなのではないか。私がそうだったからだけど。というのは、恋をしてワクワクドキドキ楽しくてたまらない相手と、長年生活して頼りになる相手は違うからでは。恋の出来ない相手と一緒に暮らすのは不可能、という見方もあろうが、相手を思いやりながら一緒に暮らせる人同士なら、二人の生活には愛情が芽生えるんじゃないだろうか。


9月30日(日曜)
 台風が来た。都内のスポーツジムに行こうと思ってたけど家にいた。
 そして婚活KOKOの動画を観てしまう。
 この動画ではカウンセラーの工藤恵子さんという方がビシバシと婚活女性が成婚するために必要な事を指導している。そこから見えて来るのは、日本人女性の弱い点。「自己主張出来ない」「自分の意見を言わない」「受け身」「イケメンに弱すぎる」「強引な男性に巻き取られてしまう」。こうではない日本人女性もいる。しかしこの傾向の女性は本当に多いと実感する。私この要素、半分くらいは社会が女性に幼い頃から「そういう女になれ」と求めた結果のように思う。そういう社会の要求に従順でないと叩かれるのが日本社会ではないか。過剰に空気を読むように求められ、より空気を読む事を良い事だと叩き込まれるのが我々日本人の生きている環境だから。
 

2018.9.18tue~9.23sun

9月18日(火)
 迫りくるアーレント読書会の日程に怯える。物事が手に付かない。小心者。
 そして昨日のカポエイラの練習で痛めた内ももの筋は動かすと痛む。
 部活で運動をやった事もなく、怪我事態ほとんどした事がないので、スポーツで体を痛めたときに、なにはやばくて何は自然治癒待ちで良いのか勘が働かないのであった。

 


9月19日(水)
 明日に迫ったアーレント読書会の日程に怯える。前期に習った事全部忘れてそうで恐ろしい。そんなときに一番読みやすかった矢野久美子の『「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 』(中公新書)を家の中でロストしてしまう。ふ、復習……。

 


9月20日(木)
 ついにアーレント読書会の開催日である。これは何かというと、前期に市民講座でハンナ・アーレント入門講座を受け持った先生に、夏休み後の我々の復習の機会を設けてもらえるようお願いした集まりなのである。
 夏休みは前期の復習に費やすはずが、結局ペアダンスとカポエイラで過ごしてしまい、ここしばらく頭の中までカポエイラになっていた。戦前のドイツ帝国の事を完全に忘れている。付け焼き場の知識の脆さを痛感するのであった。
 私的に呼び掛けた参加者の方々&先生へのもてなしのつもりで、二次会も企画する。呼び掛けた参加者の皆さんは皆真面目に前期の課題図書を読んで集まったので、話が弾む。しかし先生にとってなんらかいい時間になりえたのかは不明である。

 大体、何かしら講座があると、その後は先生を囲んでお茶会したりお酒飲んだりしているようだけども。

 

9月21日(金)
 仕事で許しがたい非道の話を聞いて、物事が手に付かない。
 そんな気持ちで源氏物語の市民講座に行く。文学の読み方のレクチャーを受け、癒される。知性がもたらす物事の構造や創造の面白さは、憂き世の憂さを雲散霧消させてくれる。

 

 

9月22日(土)
 癒しの三連休初日。疲れ切って寝ていた。
 北条かや『キャバ嬢の社会学』に関する批評を4年遅れで見聞きする。よく考えたらペアダンスも「男装/女装」して臨むもののように思う。男装者の中身が男でも女でも、想像上の架空の「男性」を装って演じ踊るのがペアダンスではないだろうか。ジェンダー的な「男」も「女」も架空の存在である。架空であるにも関わらず、それが時に「男」や「女」を性の対象とする者にとって、強烈に魅力的となるのは不思議な事だ。プリミティブな生まれながらの男や女では、魅力がいまひとつなのだろうか。これは、例えば独学で歌うよりも、体系的な理論から生まれたメソッドを持つ声楽で歌を歌う練習をして身に付く歌の魅力と同じようなものとみてもいいのか。

 

 

9月23日(日)
 国立の一橋大学で開催されていた「哲学で経済を語る」を聴講しに行く。
 ジャン=ピエール・デュピュイというフランスの思想家の講演会。フランス哲学の西谷修さんの講演もあった。今は経済は世界の基軸のごとき秩序となり、経済以外の価値観を駆逐していく。関空の水没や北海道のブラックアウトと合わせて語られており、面白い話だった。
 経済学難しいよね。先生が一杯いて、それぞれ違う事を言うのだもの。

 

 

 アーレント読書会で喝をもらった気分で、ベンヤミン講座の予習復習にも気合を込める。帰宅前に久々にカフェ読書をした。なんとなく長居しづらくて45分位で出る。