田山花袋『蒲団』(青空文庫)
雑談で話題になった小説。未読だったので読んでみる。
20世紀日本の自然主義文学の代表作または、私小説の走りともされているそうだ。35歳の惑い(21世紀初頭の現代においては40歳くらい? 現代の30代は若いので比較が難しい)というか、中年の危機というか、愛する女と結婚したが女が子供産んで「変貌」して心が離れてきた所に現れた若い将来有望な女学生に心惹かれるおじさんのお話だった。
若い頃器量悪い問題で傷を負った身としては、文学者ともあろう男性が
"女性には
容色 と謂 うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色 に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。"
とは何事だろうかと絶望する。
仕方がないと思うのは、どうやらスタンダールという男もこの類いという疑惑がある。賢かろうが文学者だろうがそこはろくでもないのだ。学識者であることと人格の高さが一致しない好例と言えよう。生まれ持った器量が優れないという点に置いて既に劣った存在だと見做されるのは苦痛だが、直接関わらないので関係ないと思うしかない。こういう言動を見聞きするたびに若い頃の私は傷つき、人にまともと思われるために装飾に励まなくてはいけない、男性に評価されなくてはいけないと血迷ったものである。そんなことしたところで、こいつらに蒲団の匂いを嗅がれるだけだというのに。勿体無かった。
とはいうものの、この作中の竹中先生という男が実際に愛した横山芳子なる女学生は、竹中先生の主観において美人とも不美人とも定かでない。容色良い女に憧れるのは竹中先生の漠然とした願望であり、現実には未来ある若い生命体の日向の日差しを受けた玉虫色の輝きに捕らわれたということであるようだ。
どこまでも客体でしかない女。私小説だからそうに決まっているが、これ男女逆だったら男性はどう思うのだろう。一人格と認識されず、夢想の中の愛の対象でしかない男。
その点で不快度は高いが、文章は流石に洒落た言い回しに長けており、暗い雰囲気はなく小気味好く、ユーモアに富んでいる。そこが面白いと感じた。
短い小説なので暇つぶしに読んでおけば、この小説との間テクスト性を持つ他作品に遭遇した時に、読書がより豊かになるのであろう。そういう意味で実りある読書だった。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1669_8259.html
一長一短とはいうものの
アーレントが『人間の条件』の中で提示している「私的領域」「公的領域」とはいかなるものかと考えている時に、私はかつて読んだ橋本治の『窯変源氏物語』という作品を思い出した。これは橋本治が独自の解釈で現代語訳した『源氏物語』である。ただ、今手元に作品がなく、以下の内容は記憶を頼りとしている事をご容赦願いたい。
この作中に、光源氏の言葉として以下のような一文が出てくる。
「私は何をしても許される身なのです」
この言葉は、確か1980年代末に発表されたアニメ映画『紫式部 源氏物語』という作品のキャッチコピーでもあった。そして当時の古典文学ファンの間で少し流行った言葉だったとも記憶している。ちなみにこれは「花の宴」において光源氏が右大臣の六の君(朧月夜)と出会って口説いた時の言葉である。「まろは、皆人に許されたれば」と原文にはある。「理想の男性」と見なされる光源氏を象徴するような言葉ととらえられたのかもしれない。
橋本治もまたこの言葉を気に入ったのか、光源氏の言葉として同作中で何度も使っている。
そして光源氏が逝去して幕を閉じる正編の後、『窯変源氏物語』の新たな語り手は光源氏から紫式部に移る。題名のみで本文の存在しない「雲隠」の帖は、正編から「宇治十帖」に移り光源氏亡き後のこの世を書き始める紫式部の動機が語られている。
その中で、紫式部もまた語る。
「私は何をしても許されるのです」
そして言葉は続く。
「なぜなら、私のしている事を誰も知らない」
光源氏が「私は許される」と語る根拠は、概ね彼が帝の愛児である事だだろう。では紫式部の根拠は何だろう。作中では明言されていなかったと思うが、私はこれこそが、公的(パブリック)な存在とされなかった「「女」の書いたもの」の事だと考えた。天下人の藤原道長が読み、多くの高位の貴族が読んだ『源氏物語』。しかし本質的には誰一人この作品をまともなものとして相手にしていなかった、という意味ではないか。
何を書こうと本当の意味では相手にされず、存在してもいない。だから許される。
皮肉である。
「帝の愛児」を根拠とする光源氏と完全な表裏だ。
しかし読み継がれた物語は、江戸時代に国学者によって公的地位を確立される。誰も知らない物語は、国を代表する文学になった。
今現在からこの書かれた物語の経緯を考えると、物語を書く余地のあった事自体が、「私的」な領域に存在した女の、その「私的領域」にも一長一短があった、と考える根拠になるかもしれない。その面が確かにある。
でも、私はそう結論するのに迷いがあった。
「だから”私的領域”も悪いものではない」と考えていいのか。
本当はここで「私的領域」という言葉を使うのは不適切で、どちらからというと「公的に認められないもの」と表現した方が実態に近いように思うが。
光源氏は「私は何をしても許されるのです(誰だって私の事を許すのですよ)」と傲慢な事を口にして女性と関係を持った。その結果、光源氏は自ら明石という外れた土地に都落ちする事になった。つまり、彼の行いは許される事でも何でもなかったのだ。
橋本治は度々光源氏にこの言葉を口にさせた。一体彼はいつこの言葉を口にしていたのか。記憶の限りだが、この言葉を口にするとき、光源氏はいつも強く抑圧されている。彼の叶えられない願いは、父帝の后との恋愛だからである。彼は本来性において、「私の思いは叶えられるはず」と繰り返し、自分に言い聞かせ、許されない事を行使した。だから光源氏は罪に問われる。
では紫式部はどうなのか。ここに作者として描かれる紫式部が、「私も許される」「何故なら誰も私をまともな存在だと認識しない」と語る事に、果たして「一長」なるものが有り得るのだろうか。
私の理解も浅薄だからわかる。これを安易に結論づけるのは危うい。例えば、では『アンネの日記』は。「『アンネの日記』は名作として語り継がれる」それをその成立過程について「だから悪い事ばかりでもなかった」と言える訳が無い。
ここの整理がまだ上手くつかない。状況が何らかを生み出したが、それは状況自体の肯定にはならない。でも、そこを悪用して状況を継続させたり肯定する言説は起こり得る。もう少し考えを進めて行きたい。
2018.11.19mon~11.18thu
2018年11月19日(月)
カポエイラレッスンへ。ビリンバウに触らせてもらう。皆よくこんな複雑かつ重くて腕の力の必要な楽器弾けるな。すごいよ。
カポエイラは腕の力も必要なんだとだんだん気付いて来た。両腕どころか、片腕で自重を持ち上げられるところまで体を鍛えないと初級技もやり抜けない。それだけ腕の力の強い人なら、赤ん坊くらいありそうな重さのビリンバウも軽々持ちあげて、動かしながら演奏出来るだろうし。
2018年11月20日(火)
体調を崩して婦人科へ。ついでに眼科へコンタクトの処方もしてもらいに行く。だんだんわかってきたけど、アラフォーとは「体調が悪い」がデフォルトのようである。具合は悪いものと考えて行動計画を立てた方が良さそうだ。体力付けたい。
ろくに運動して来なかった基礎体力も筋力も何もない疲れやすい私のようなタイプには、カポエイラは本当に良いように思う。他の団体の事はわからないけど。攻撃技を習ったからって護身以外に悪用しない心を持った人は、皆カポエイラをやったらいいと思う。
2018年11月21日(水)
用賀の無名塾仲代劇堂へ映像版『令嬢ジュリー』(1991)を観に行く。
2018年11月22日(木)
体調が戻っていないのでカポエイラの練習を休む。代わりにカポエイラの動きを取り入れたダイエットエクササイズDVD『POMBA』をポチる。カポエイラの動きに近いサンバのステップも含まれているらしい。
私は社交ダンスでもタンゴでも日本舞踊でも、とにかく振付が覚えられない。ステップも覚えられない。サルサやってる知人は「サルサバーに行く人はステップひとつしか覚えてなくても突入して踊る。そして浮いても後悔しないし自分に言い訳もしない」と言っていた。私にはステップ1つで乗り切る度胸もセンスもない。ともかく地道に体に覚え込ませる道しかない。
ステップを覚えられないのは、動きに慣れてないし、覚え慣れてもいないからではないか。そう信じて、動きになれるべく『POMBA』で練習! して! みる!
2018.11.12mon~11.18sun
2018年11月12日(月)
市民講座へ。実はまた具合が悪かったんだが、連続で休むの嫌だったので頑張って出る。夫も珍しく発熱。講座後の飲み会は欠席し、病病看病に帰る。
2018年11月13日(火)
『アーレント最後の言葉』(講談社メチエ選書)を無理やり読了する。
2018年11月14日(水)
途中で休んでたディドロ『修道女』を読む。
原稿1と原稿2の著者校正が同時に上がってきた。なんできみたちはセットでやって来るのか。校正を戻す。
代官山へバロックダンス付きの18世紀フランス宮廷再現演奏会を観に行く。素晴らしかった。この演奏会にお誘い下さった絵本作家の吉田稔美さんとご一緒だった、舞踊家の甲斐ランベールあきよさんと少しお話しさせて頂く。最高だった。
現代に至るペアダンスに繋がる複数人舞踊の流れがまた少しだけ理解出来た。求愛ダンスなるものは、求愛それ自体をかたどった舞台芸術、なのかもしれない。
2018年11月15日(木)
アーレントの市民講座。私はまるで市民講座マニアである。いや完全にマニアでしょう、この予定の入り具合。
前日に「15日はワインの日」という解説を演奏会のトークで聞き、今日がボージョレ・ヌーボーの解禁日だと知る。折角なので皆さんと少しワインを飲みたくなる。オーガニックワインを出して頂いた。多分ボージョレ・ヌーボーよりうんと美味しい。
二次会で友人の同居人が古楽愛好家だと知る。しかもかなりのマニア……。うわあ、お話し聞きたい。また音楽熱が盛り上がって来るよ。クラシックファンの中でも古楽愛好家は珍しいと聞いたのだけど、結構いますね……。なんでなの。
2018年11月16日(金)
新国立劇場へハロルド・ピンターの『誰もいない国』を観に行く。冒頭で壊れたレコードの掛かる演出がある。つまりこの話はこれに象徴されているのではないか。おじいさん二人がレトロな壊れレコードよろしく、意味をなさなくなった音を延々出し続ける。しかしそこまで象徴して定義するのが適切なのか、この脚本は。
ピンターの演劇は割と好きなんだけど、ともかく難解。難解で、役者とは、小道具とは、とあらゆるものの意味を考え直し、演劇というものがなんなのかを考えずにいられなくなるように思う。そして各俳優がどうそれを表現するのか、しかも装飾がほとんどない生活感が全てのような素朴な難しい役柄を演じるのだ。むー。これは。
帰宅してメールに気付いたら、終わったと思ってた原稿の依頼がもう1ヶ月続くらしかった。嬉しいけどまた体力的に辛そうだ。
2018年11月17日(土)
1ヶ月振りにカポエイラに行った。なんたる。
全てが退化してそうで怯えていたが、思ったほどゼロに戻ってはいなかった。でも、アラフォーの体の衰えスピードは速い。技を忘れるというより、出来て来た体の衰えが早い。
カポエイラの練習は結構ハードだ。筋トレもそれなりの強度である。私は初めの内なので、出来なくても怒られたりはしないが、やっぱり皆さんががっつりやっているのに一人だけ付いていけないのは情けない。情けなくて、行くのが怖くなる。でも、自分との闘いだね。頑張ろう。
2018年11月18日(日)
筋トレもがっつりやったというのに、それほどの疲労はなかった。
最近エアコンを使っていないので良かろうと、洗濯2回分を乾燥まで洗濯機に任せてしまう。しかしやっと洗濯物が片付いた。図書館に行ったら掲示板で近所の社交ダンスサークル開講のお知らせを発見する。おおお、ついに我が町にもサークルが出現したのか!
2018.11.5mon~11.11sun
2018年11月5日(月)
10月末締切の原稿の取材に行く。面白い話だった。これは原稿にもしやすいだろうと、余裕をこき、夜、夫と近所のスペインバルに飲みに行く。
2018年11月6日(火)
一日中原稿。夕方には仕上がった。いいペースである。その後、別の原稿作成の準備に入る。
2018年11月7日(水)
原稿チェックも終わって入稿。『ゲーテの「親和力」』は読み終わらない。原稿2の作成準備を続ける。
2018年11月8日(木)
通勤時も昼休みも『ゲーテの「親和力」』を読む。講座開始前に滑り込み読了。しかし予定を無事こなせて助かった。充実感。時間は空いていたが、カポエイラどころか原稿2の準備続きをする体力も失って倒れるように眠る。疲れた。
2018年11月9日(金)
原稿2を夜中に仕上げて入稿。終わった。疲れた。
2018年11月10日(土)
半年ぶりに美容院へ。この2年くらい、夏場はパーマでまとめ髮、秋以降は前下がりボブでループしている。しかし夏のパーマが結構残っているので外ハネボブで様子を見ることに。自分では外ハネあまり好きじゃないんだけども。
15日の市民講座に向けて課題本『アーレント最後の言葉』(講談社メチエ選書)を読む。元々フランス文学研究の方が書かれた本らしい。論文でありながらダイイングメッセージを追う推理小説的な構成になっており、そういうのがフランス文学的らしい。構成が面白い。
2018年11月11日(日)
友人の引越し祝いに行く。食べ物持ち寄りなので、パスタサラダを作ったが味覚障害かと疑うほど油っぽい仕上がりになってしまって反省した。あと、最近仕事が忙しい事を盾に料理をさぼり続けていたら友人に「やらないと下手になる」と怒られた。反省した。
2018.11.1thu~11.4sun
2018年11月1日(木)
会社の飲み会だった。途中で切り上げてカポエイラに行きたかったが、帰るに帰れず、帰宅が遅くなり、疲れ果てる。
口直しに『獣になれない私たち』3話と『フェイクニュース』前編で野木亜紀子脚本三昧。『フェイクニュース』は、『逃げるは恥だが役に立つ』及び『アンナチュラル』で野木亜紀子脚本のファンとなった私のど真ん中に来る内容だった。私の弱点がモチーフになっていて所々薄眼で画面を観る展開だった。辛い。が、主人公の女性記者がテコンドーの練習者であり、作中でセクハラ行為から逃れるために相手に蹴り技のコンボを決める場面がある。「〇〇からの☆☆、★★」と決めた技を女性記者は語っていた。これは、カポエイラなら「フレンチからのアルマーダ、アルマーダ、コンパッソ」というイメージか、と連想し、カポエイラが懐かしくなる。
ちなみにカポエイラの技を訳すと「前方内回し半月蹴りからの、回転内回し蹴り、回転内回し蹴り、低空回転半月蹴り」かな? 最後のコンパッソで後方にぶっ飛ばせると距離も取れて良さそうですね。カポエイラもヒットすると相手が全治1ヶ月等になるんだろうな……。
2018年11月2日(金)
市民講座の日。『源氏物語 宇治十帖』を読む。毎回とても面白い。
2018年11月3日(土)
お手伝いで朝から掃除へ行く。帰宅すると昼過ぎていて1日あっという間に。図書館に仕事用の資料のコピーに行く。やっと『親和力』を読了。面白かった。休む間も無く次は本丸のベンヤミンの批評『ゲーテの「親和力」』へ。
2018年11月4日(日)
うむ、とても難しい。死ぬ。
2018.10.29mon~10.31wed
2018年10月29日(月)
カポエラ行こうと構えていたけど、休みの日だった。
2018年10月30日(火)
京橋の国立映画アーカイブにてコッポラ監督『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)を夫と鑑賞。『地獄の黙示録』の次回作品だそうな。ラスベガスに住む中年の男女カップルの破綻と再生を描く恋愛ドラマ。全編セットで撮影された映画であり、脚本も類型100連発の見事な「人工物」映画。フィーリングが合い、仲の良かった男女カップルが些細な事から皿の飛ぶ大げんかに発展し、破綻。お互いに新しい相手を見つけ(しかもお互いに元の恋人よりも美形度が高く人柄も良く将来性も高そうな)、新しい恋に夢中になる。しかし新たな幸せを手に入れたはずが、やはり元の恋人を忘れられない男が女を取り戻しに出る。女が飛行機で新しい恋人と遠くに旅立とうとするところを寸前で飛行場へ追い掛けに行く男。女を引き留めるために、泣きながら女の望む歌を衆人環視の中うたう男。それでも女は去り、残された男は女と暮らした部屋に一人戻って泣き濡れる。するとそこには、旅立ったはずの女が再び戻って来たのだった。独立記念日が交際確立日だったり、その記念日に破綻が起こったり、とにかく類型。それにもかかわらず、引き込まれて観てしまう。そこにこそ、私はコッポラや脚本や演技のすごさを実感した。
2018年10月31日(水)
引き続き『親和力』を読む。ほか、一本入稿。