読んだり書いたり

読んだり書いたり

ライター白山羊ひつじのよしなしごと

一長一短とはいうものの

 アーレントが『人間の条件』の中で提示している「私的領域」「公的領域」とはいかなるものかと考えている時に、私はかつて読んだ橋本治の『窯変源氏物語』という作品を思い出した。これは橋本治が独自の解釈で現代語訳した『源氏物語』である。ただ、今手元に作品がなく、以下の内容は記憶を頼りとしている事をご容赦願いたい。

 この作中に、光源氏の言葉として以下のような一文が出てくる。

「私は何をしても許される身なのです」

 この言葉は、確か1980年代末に発表されたアニメ映画『紫式部 源氏物語』という作品のキャッチコピーでもあった。そして当時の古典文学ファンの間で少し流行った言葉だったとも記憶している。ちなみにこれは「花の宴」において光源氏が右大臣の六の君(朧月夜)と出会って口説いた時の言葉である。「まろは、皆人に許されたれば」と原文にはある。「理想の男性」と見なされる光源氏を象徴するような言葉ととらえられたのかもしれない。

 橋本治もまたこの言葉を気に入ったのか、光源氏の言葉として同作中で何度も使っている。

 そして光源氏が逝去して幕を閉じる正編の後、『窯変源氏物語』の新たな語り手は光源氏から紫式部に移る。題名のみで本文の存在しない「雲隠」の帖は、正編から「宇治十帖」に移り光源氏亡き後のこの世を書き始める紫式部の動機が語られている。

 その中で、紫式部もまた語る。

「私は何をしても許されるのです」

 そして言葉は続く。

「なぜなら、私のしている事を誰も知らない」

 

 光源氏が「私は許される」と語る根拠は、概ね彼が帝の愛児である事だだろう。では紫式部の根拠は何だろう。作中では明言されていなかったと思うが、私はこれこそが、公的(パブリック)な存在とされなかった「「女」の書いたもの」の事だと考えた。天下人の藤原道長が読み、多くの高位の貴族が読んだ『源氏物語』。しかし本質的には誰一人この作品をまともなものとして相手にしていなかった、という意味ではないか。

 何を書こうと本当の意味では相手にされず、存在してもいない。だから許される。

 皮肉である。

 「帝の愛児」を根拠とする光源氏と完全な表裏だ。

 しかし読み継がれた物語は、江戸時代に国学者によって公的地位を確立される。誰も知らない物語は、国を代表する文学になった。

 今現在からこの書かれた物語の経緯を考えると、物語を書く余地のあった事自体が、「私的」な領域に存在した女の、その「私的領域」にも一長一短があった、と考える根拠になるかもしれない。その面が確かにある。

 でも、私はそう結論するのに迷いがあった。

 「だから”私的領域”も悪いものではない」と考えていいのか。

 本当はここで「私的領域」という言葉を使うのは不適切で、どちらからというと「公的に認められないもの」と表現した方が実態に近いように思うが。

 

 光源氏は「私は何をしても許されるのです(誰だって私の事を許すのですよ)」と傲慢な事を口にして女性と関係を持った。その結果、光源氏は自ら明石という外れた土地に都落ちする事になった。つまり、彼の行いは許される事でも何でもなかったのだ。

 橋本治は度々光源氏にこの言葉を口にさせた。一体彼はいつこの言葉を口にしていたのか。記憶の限りだが、この言葉を口にするとき、光源氏はいつも強く抑圧されている。彼の叶えられない願いは、父帝の后との恋愛だからである。彼は本来性において、「私の思いは叶えられるはず」と繰り返し、自分に言い聞かせ、許されない事を行使した。だから光源氏は罪に問われる。

 では紫式部はどうなのか。ここに作者として描かれる紫式部が、「私も許される」「何故なら誰も私をまともな存在だと認識しない」と語る事に、果たして「一長」なるものが有り得るのだろうか。

 

 私の理解も浅薄だからわかる。これを安易に結論づけるのは危うい。例えば、では『アンネの日記』は。「『アンネの日記』は名作として語り継がれる」それをその成立過程について「だから悪い事ばかりでもなかった」と言える訳が無い。

 ここの整理がまだ上手くつかない。状況が何らかを生み出したが、それは状況自体の肯定にはならない。でも、そこを悪用して状況を継続させたり肯定する言説は起こり得る。もう少し考えを進めて行きたい。