読んだり書いたり

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ライター白山羊ひつじのよしなしごと

『王様のレストラン』(1995)全11話 三谷幸喜脚本

真田丸』以降三谷幸喜脚本に注目しており、この連休は氏の代表作といわれるテレビドラマ『王様のレストラン』を視聴した。
あとで振り返ったら、24歳の年若い九郎義経が年の離れた生き別れの異母兄の元へ弁慶(松本白鸚)を連れて源氏再興(父親のレストラン再建)にやって来る清和源氏の物語だった。(そういう意味ではドラマは壇ノ浦で終わっている。ちなみに平氏は出て来ない)
そう見るのが王道と思うが、私はこのドラマをバブル期にパリの模倣として日本で開業した高級フランス料理店が、バブル期崩壊後に以下に日本文化と混じり合って土着化し常態化する物語かと観てしまった。
フランスの「本物」を知っているのは「伝説のギャルソン」と呼ばれ技能もプライドも一流の千石武(松本白鸚)と、バブル期の高級フレンチによくいたと噂される偉そうなソムリエを体現したような大庭という人物かと思う。また、この二役は当時の流行作家のエッセイで活写されているように、高級フランス料理店の象徴的な店員像だったのではないか。
物語の始まりでは、パリ模倣のスタイルをそれなりに保とうとする舞台となるレストラン「ベル・エキップ」だが、再建の過程でどんどん日本的な大衆性に寄って行く。具体的にそこは書かれてはいないのだが、新オーナーの禄郎(義経ポジション)の元で従業員が成長し結束していく姿はいかにも日本の情緒的な繋がり方だ。そんな彼らに「パリ模倣スタイル」が貫けるとは思えない。何かと言えば敗者を見捨てずに連帯を続けていく判官贔屓の雰囲気が強い。そんな中で「パリの模倣」派の先鋭だった千石武は一度レストランを去る。彼から離れたところで「ベル・エキップ」は次世代のあり方として自分達の個性を伸ばして力を付けて行く必要もあったのだろう。そして千石と再合流し、全員でまだ見ぬ新たな「一流店」を模索して行く。そして彼らの行き着いた先は、高級フランス料理店に通える層が薄くなった今の日本で生き残る、カジュアル・フレンチのスタイルなのではないだろうか。そこまでの変化の過程が描かれていたと私は思った。

私は三谷幸喜の『12人の優しい日本人』(映画版)が好きだ。ネタ元である『12人の怒れる男』と比較すると、同胞だけに三谷版で描かれる日本人の正義よりも曖昧さを求める姿勢が続く前半に笑いどころか真底うんざりするが。しかしそんな不正義から、たまたまで物事好転する展開に驚きを感じる。こんな変な民族性からも良い事が生まれる。人間も人間の文化も不思議なものだ。物事一概に言えないものだ、という。理解できない好ましくないものから、良いものが生まれて他者の存在を肯定できるようになる。これはいいことだと思っている。そういう意味でもこの作品が好きだ。

 

 

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