読んだり書いたり

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ライター白山羊ひつじのよしなしごと

上司の悪口の書き方

 具合が悪くてほぼ一日倒れており、何か読める程度に回復してから、思い立って『紫式部日記』をポチる。
 先日から清少納言の関連本を読んで、橋本治『窯変源氏物語』を思い出したところで、『源氏』熱が盛り上がっていたのだった。

 『窯変』の真骨頂は「雲隠」を作者の『源氏物語』執筆秘話として中に混ぜたところだろう。
 (いま思えばこの、物語の中に作者の自分語りが紛れ込む形式の混在ぶりは、『紫式部日記』の「消息文」問題をそのまま流用しているのかもしれない)

 「雲隠」が収録された単行本11巻の帯には以下のようにある。

 

 「女の作った物語の中に閉じ込められた男と男の作った時代の中に閉じ込められた女
  光源氏紫式部
  虚は実となり、実は虚を紡ぐ。『窯変源氏物語』は、物語を書く女の物語として、改めて始められる。」

 
  「正編」で光源氏が死去したあとの物語の語り手は紫式部に移る。その過程で、新たな物語の語り手になった紫式部は『源氏物語』執筆に至る経緯を語り出す。そこには、光源氏および藤壺中宮のモデルとして、藤原伊周中宮定子が挙げられている。紫式部は、定子のような人のいる場所で、みずからの力を発揮したいと願っていたと述懐する。何故なら、女に生まれた紫式部は、どれほど漢文の素養があり、日本書紀をよく知り、仏教に通じていても、誰にも一人の人間として相手にされる事がなかったから。清少納言と機知に富んだやりとりを愛する定子なら──と、思いを巡らせていたというのだ。
  そして、伊周も定子も中央を追われこの世を去った。次に現れたのは、彼らを追い落とした藤原道長である。
  紫式部道長の元で『源氏物語』の続きを書く。
  琵琶湖で十五夜の月を見て着想した須磨明石の物語。無実の流刑で海辺を流離う男と、都でそれを案ずる女。「光」「輝く日」と並び称された美しい男と女。それは、伊周であり、定子の姿だった。
  しかし、道長もまた、紫式部を「人間」とは思わない。だから、他愛のない「物語」などを書く女を娘彰子の珍しい持ち物として手配する。
  誰も、紫式部が何を書いているのかは知らない。知ろうともしない。だから紫式部は書く。自由に。何を書いても自由なのだ。誰も、それが何かを知ることはないのだから。
 
  と、泣かせる話なのだった。
  女の身の上の不遇と、一人の作家の心を描いて、それ自体を現代の物語として描きなおしている。
  さすが作家の作品だと思う。
 
  金もらおうと裕福な暮らしになろうと、馬鹿を認められるわけがないんだよね、紫式部みたいな才人が。
  何があったって自分がいいと思ったものに忠実という姿が描かれているようで泣かせる。
 
  ただ、もうひとつのポイントは、正編を光源氏自身が語り、宇治十帖を光源氏亡き後紫式部自身が語っているという点。

 素人考えだが、宇治十帖は正編から相当時代が進んでいるように感じる。新古今和歌集の時代に近づいていると思う。無常観が強いと言えばいいのか。そこでは、きらびやかに栄華を極めればなんとでもなった時代の崩壊後の世界が描かれている。女三の宮が、栄華を極めた光源氏の価値観を壊してしまっているので、宇治十帖はその後の光なき世界なのではないか。
  光源氏も「若菜」(おそらくそれ以前)から、普通の中年の男として描かれ始める。
  この世の栄華は、大したものではない、という紫式部自体の変化も描かれているように思う。それは、『窯変』を語りながら語り手の「紫式部」自身が受けている変化そのものなのかも知れない。
  心から尊敬しないにしろ道長のそばにいるようになり、紫式部は栄華を極めた人間を目撃して、幸せというものの見方が大きく変わったのではないか。そこに、薫と匂宮という完璧とは程遠い、嫌な所もある主人公たちの姿があるように思う。そして、女三の宮以降、裕福で文化水準が高いだけでは幸せになれない宇治の姉妹達が現れる。
  もう一度、ちゃんと『窯変源氏物語』を読みたいと思わずにいられない。